ありがとうございます。

2011/07/30
久々の大阪です。シェークスピアweek in Kyoto から生まれたこの作品の元になっている「アテネのタイモン」は、ほとんど上演されていない。しかも、シェクスピア小田島先生の訳を一言も使用せずに好きなように書いて、すっかり個人的なものになってしまって、シェクスピアはなにも残っていない...と言った時点で記者や劇場の人に大笑いされてしまった。すいません、でも自由にやらさしていただいて本当に感謝しております。

私の祖母はキリスト教徒で(私は特に信仰がないのですが)幼いころ聖書がおもしろくなくて、物語を勝手に書き換えておもしろくした。自分に納得いく方法に変えた。例えば、海がわれたあとに魚がたくさんでてきて、みんなでとって塩焼きにして食べて貧しさから逃れそこはバーベキュー会場になった。とか、なので、私が祖母からもらった聖書はいたずら書きだらけですが誰にも怒られなかった。だから、シェクスピアもゆるしてくれるでしょう。時代が流れ、今、日本が抱えている問題を無視して言葉が書けないということを、演劇する意味を自分自身に問い、戯曲を書く意味を考えなおしている。人は個人的に大事にしているものに対して誠実に生きてゆく、そのことについて私は考えがたりない。災害がおこる時それは平等におこる。特別ということはない。それはすべてにおいてそうだ。苦難というものは人におこる。それで祈りなさいと言われると馬鹿にされている気がしてならない、祈りではどうにもならないよとこっそりキリスト教徒の祖母が教えてくれた。生きてゆくためには個人が大事にしているものがなにかを理解する必要があると、ある人は家族だったり、友人、子供、仕事、自然、言葉、踊り、だったりするんだと、他人がいるから強くなるなんて嘘だからね、他人のためにではなく、自分のためであれば、人からみてバカバカしいことだと思われても良いのだ。という本当の意味をつかみきれてない。今回のタイモンは人からみてバカバカしいと思うことに取り付かれている人達ばかりで、どんな台詞が"個人的に大事にしているものに対して誠実に生きてゆく"につながるのかみつけられない。

ダンサーに思うこと、どんなふうに人の心を動かすか?ということ、上手に動くかではなく、人の心を動かせるダンサーと、そうでないダンサーはすぐに直感的にわかる。そこまで到達していなくてもその可能性がある不自由な人が好きである。それは、考えつづけないとでてこない。それができるダンサーもまた少ないが、何人かいるし、これから確実に出会っていきたい。

言葉を発する役者にも同じことを思う。人のを心を動かす演技、それはどう演じるかよりも個人その人がその台詞をどうとらえるかだ。

私が興味があるのは、人が上手に演じる、踊ることよりも、どの一瞬が人の心を動かし、とらえるかという行為にのみ興味がかたむく。この興味がかたむくほうを信じてみようと思う。

演出って難しい。日々考え続けること、あぁ不器用です。
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